2025年7月21日月曜日

贅沢な空間

フラメンコのクラスを覗きに行く。
右の方が私の友人で 彼女がフラメンコをやってる事を聞く。

そして 彼女は 足を強く タップしたり 蹴ったりすると 気分がスッキリするの! と言うのを聞いて....
もしかしたら フラメンコ いいかも....?
と思って見学へ。

先生(真ん中の女性)と 生徒の フラメンコと ギターリスト同時に動いているのを見てると なんと 素晴らしい!
生演奏の ギターのサウンドが響いているだけで いい感じ....。

全員

生演奏でのダンスが いつも一体になってるのを見てるだけで なんと贅沢な....。

 

2025年7月19日土曜日

スプーンを 引きずる猫

一時は 安楽死をさせてあげなければ と言うほど 吐いて 吐いて 何も食べ...うずくまっているだけ...

最近 吐きはするけど まだまだ 人に興味がある。
家に住む ルミちゃん だぁーい好き。
ルミちゃんの 住む ロフトには 急階段。
それでも そこを上がり下がりして ルミちゃんの後を追う。

アレ?!
猫ドアのロックを外す 強力磁石に スプーンが!.......
カチャカチャ言わせつつ引きずっている....
 

煙る朝日

子供の頃よく見た 日差しに煙る光線。
今は 毎朝線香を炊いている。
子供頃は 毎朝線香等炊いてなかったのに なぜに 煙った光線をよく見たのだろう...?

 

2025年7月16日水曜日

痩せねば・・・!

左は つい最近の写真
右は 5ヶ月位の写真
自分は 右の写真である!  と信じて疑ってなかったのに・・・。

写りがタマタマ悪かったのか?
と思ったが やっぱ 自分が今まで着てた服を来てみると やっぱ どれも 着れたもんじゃ~ない! 新しく買わねば! と思ったが・・。

いやいや ここで 妥協して買ったら どんどん太る。
でも 痩せられるか~~? 
やせなくっちゃ~!


と言うことで 今 自分が食ってるのは 何カロリーなのか?
と 調べて見る。
⬆の写真は "これから 痩せよう!!" と決心して とりあえず カロリーを見てみると なんと こんなんで 約450カロリー。

今まで は これは 150カロリー位だと思っていた。
と言うことは 私は 毎日毎日 多分 一日2500カロリー位食ってた事になる。
太るはずだ~。

元に戻すには 私の場合 一日 1200カロリー摂取 で 三ヶ月はかかるとか・・。
一応 昨日から始めたが・・
多分 三日坊主だと思う・・。
なんせ 私は 三日坊主のベテランだから・・・。

 

2025年7月15日火曜日

今の自分に感謝

 最近 周りの人が 段々 病気になったり 亡くなったりもしている。 自分の年齢が 74歳ともなれば それも 普通かもしれない。

私の歯医者は 歳が 60歳に手が届く程ではある。 私は 彼を ニュージーランドに来た頃からしっている・・と言う事は もう 30年以上彼の事を見続けて来た事になる。

いつも 体は引き締まり 真冬でも すぐ前のビーチに飛び込む毎日。 サーファーでもあり 世界中の波を探して旅もする。 常に 私とは 異次元の人ではないか? と思われる程 健康的。 

その彼が 倒れた。 目の奥の脳に支障が出来て・・詳しい事は分からないが・・放っておけば 死に至る。 よって 彼のスリランカの旅は急遽キャンセルされて 今は 何回もの手術を行っている。

とりあえず 手術との治療をしているが・・ 仕事もしているが・・ 最低限の仕事をして あまり 具合が良い感じではない・・。

もう一人 私のビルダー。 私が宿を始めた頃から 私の宿を全部作ってくれた。 宿だけではなく 自宅も 田舎の土地のダンス用建物 別に自分専用小屋も作ってくれた。 全部内部の設備も 彼が 細かくやってくれた。 ちっこい暖炉だの セコハンで作ったキッチンユニット 子供専用の半分サイズの風呂 とか 私の特別要求を全部呑んでくれて・・いつも こころよくやってくれる。

ダンスで使う 捕まって踊る練習をするバーも 長さや 高さや 細かい注文も全部私要求ピッタリに作ってくれた。

今は もう 何十人もの従業員を使って 億と言う費用のかかるビルを請け負う建築会社にのし上がった。 なのに 私が 洗濯物干しを作ってくれ・・と言うと 彼直々にやって来て 作ってくれる。 そして ずっと 私とお喋りをして行く。 結果 物干しの費用は取らない・・。彼と出会った頃は 私の最初の宿の建築では一人で 黙々と働く若造だった。

そして 彼の体も全くもって 余計な脂肪もなく いつも 足の長い 背の高い 理想系男子だった。 が 半年位から "自己免疫疾患"をわずらい・・ 入退院を繰り返し・・ 検査なんか MRIだの CTスキャンだの 数えられない位やり・・血液検査なんか 何万回もやったぜ!と言っている。

本人が言うには 筋肉が落ち どんどん 羽の無い 鶏の様になって来た・・と言っている。 日々 痛みと倦怠感 食欲不審 そして 鬱と戦っている様子。

なんだか 自分が デブで 歳を取って ドンドン見にくくなって行く事だけを最近考えていたが・・ いかん いかん 自分は とりあえず 毎日 起きて ご飯も美味しく食べれて 時々ダンスをして・・ 何が不足なんだ?!

デブなのが もう 我慢出来ん!! と 嘆き悲しんでる場合か?! 病んで 鶏ガラの様になった方がいいのか? と 思うと今の自分に "感謝"を 忘れてはいけない・・と思う・・・。


2025年7月13日日曜日

躁と鬱が 交互に来る今日この頃・・

 50年以上前 ロンドンに住んでいる時に よく ナイトブリッジと言う ハロッズのある高級店街に行っていた。もちろん何を買うでも無い。 しかし 今のイギリスのプリンセスの ケイトのお気に入りのSLOAN SQUAREと言う所が とくに私のお気に入りの場所だった。

あんな 超貧乏の私がなぜ どうどうと そんな所を闊歩していたのか? 不思議で仕方が無い・・。

あれから 50年以上経った今・・ やっと人心地が付き 仕事もなく ブラブラしていると あの頃の 優雅な気分を思い出す。

あの頃は 実は そのホームレスと同じく お金があった訳ではない・・ だが・・自由があったし・・ 自分を見つめて 自分にドップリと浸かっていた。又 あの時の自分に戻りたい。 戻るには 金は不要・・あの時は ホームレスと同等の貧乏人だったのだから・・。

はてさて じゃ~ どうやったら 

そこなんだ! と気がついた。 自分は 今 全てに解き放たれた・・と思っていたが・・実際は 全く解き放たれていないのだ。

若い時の様に 自分が自分らしく 自分だけの時間を過ごすのが 簡単に出来ない様になってしまっている。 

3回結婚して 3回とも夫は 私のサポートに価値を見出してくれた。 その"価値"に自分はすがって しまった人生だったからだと ChatGPTは言う。 では なんで 私は それにすがってしまったのか? ChatGPTは 又 私は 自分を見失って 自分の為ではなく 人の為に尽くす事で自分の価値を見出してしまったからだと言う。

じゃ~ そんな自分ではなく 本当に自分の為の 自分にあう パートナーとは どんな人間なんだ? と ChatGPTに訊くと・・包容力のある 私の気持ちに沿ってくれる人 なんだとさ! 

そっか~ 私が今まで 結婚した 3人の夫とは真逆なんだぁ~・・で! そんな輩を私が見つけ出す事が出来るはずもない・・・ もうこんな歳になってしまって・・。 若いならまだしも・・。

いた! 包容力があり・・私の気持ちに沿ってくれる人が 私の身近に! 私のタンゴの先生なのだ!

しかし・・私のタンゴの先生は 純粋なれっきとした ゲイなのだ・・。 残念! でもそんな人間が 私の身近に現れたと言う事は やはり 私は ラッキーなのかもしれない・・。

ある タレント的脳科学者がゆっとった! "幸運" と "不運" は みんな平等。 そのラッキーな人と 運の悪い人の違いは "虹を見たか 見なかったの違いである" と言う。

つまり 虹が出た地区で 虹を見た人と見なかった人に別れる。 空を見上げて 虹を見た人はラッキーであって 見なかった人は不運。 でも その地区の人全員 平等に 虹を見ることは出来るのだから・・。

とても 分かりやすい説明なのだ。 

数年前 私が足の手術をして 数ヶ月 自分の二本の

足で立ち上がれない 歩けない時期があった・・。

今は 毎朝 その時の事を思って・・ "お~~し! 今日も 自分の二本の足で立ち上がれて 歩けるのだ!! 最高に幸せ!!" と思うことにしている。 どうせ そのうち 歩けなくなって 死を受け入れる瞬間とかくるのだろうから。

そう思えば 今 自分は 最高にラッキーな状態なんだ! と言える。

2025年7月9日水曜日

叔母と私

 父親の妹である叔母が 私にはいた。 その叔母を 私の母親は ものすごく嫌っていた。 なぜか・・・ どう考えても 私が 大人になってからでも 今 もう 74歳と言う 歳になっても なぜ あんなに 私の母親が その叔母を嫌っていたのかが 分からない・・。

私が子供の頃は 戦後で 男不足で 結婚できない女が沢山いた。 その叔母もその一人で 我が家に居た。 と言うのが 私の母親にとっては 気に食わなかったのか?

それでも 私にとっては その叔母が 我が家に居た記憶は全くない。 と言うのは 多分 我が家には ほんの数年 私が乳児の頃にしかいなかったのだろう・・。

母親から聞いた話で その叔母は 進駐軍のジープでさらわれて 近所中大騒ぎになったと・・で だいぶ経ってから ケロッとして ただいま~! と 帰ってきたとか。

みんなが 大騒動しているのにも関わらず 悪ぶれない態度で 近所中があっけにとられ・・ 「みんなが 心配しているのに なにその態度は!」と 言っても 「ヒッチハイクして帰ってきただけなのに・・」 と本人は言ったとか。

あの頃 "ヒッチハイク"と言う言葉を使ったと言うのが また 私にとっては 驚き。 ましてや それを 実行した そして それが アメリカ兵のジープ だから それだけで もう 私としては "アッパレ!" としか言うしか無い。

なのに それを 話したのは私の母親であって・・ 母親は 如何に叔母が非常識で 問題人間だったか! を私に言いたかったのだ。

が 私の反応は 彼女の期待を完全に覆して "凄い叔母!"と讃える様に言ったから 母親の憤慨は半端ではなかった。 それは 私が 二十歳の頃に聞いた話だ。

私の母親の叔母への憎しみは その辺から 私の方に矛先が向いた様な気がする。

私は 高校に殆ど 登校していない・・つまり不登校 だけど 親はそれは全く知らない。 親は 私が 全く登校していなかった事すら 気がつかないくらい 私には全く気が向いていなかった。

もちろん! 高校時代 友達と言う人もいないし・・一緒につるんだ人もいなかった。 よって 修学旅行の為に学校で積み立ててあったお金をそっくり 使って 私は 一人で 岩手から 宮崎に住む その叔母に会いに行くことにした。母親にそれを言ったら すんなり いいよと言ってくれた。

それは 許可したと言うより 面倒くさいから 心配とかも考えたくなかったから それとも 叔母の名前を出したからか・・・ 投げ出すような "いいよ" だったのを ハッキリ記憶している。

なんと 私は その時 岩手から 神戸までは 列車で それから フェリーに乗って 宮崎まで・・帰りは 宮崎から 寝台列車で 東京まで それから 岩手まで・・と 大旅行をしたのだ。

神戸からフェリーで宮崎までは 一生忘れられない程楽しかった記憶がある。 他の 男子高校生達 何人も囲まれて フェリーにいる間 ずっと 彼らとつるんでいた。 私は 女子一人で まるで 女王様的 存在だった。

高校はほとんど不登校で 友人一人もいなくて 寡黙な ・・多分 引きこもり的存在の子供だったのが 突然 真逆な環境になったのを覚えている。

その時 その男子達と撮った写真が残っていると言うことは その後 手紙のやり取りがあったのだろう・・。 まだ 写真は印画紙の時代だったし。

叔母の話にもどそう・・。 叔母は 言葉をあまり発しない人だった。 私を見つめて ニッコリはするが それだけで 心を通わす人だった。

宮崎駅で タクシーに乗って 家の名字を言いなさい・・と言われて 私は叔母の家に辿りついた。 その時 どのタクシーでもいい・・と言うのが 不思議でならなかった。

宮崎市だから 結構デカイ都市だから タクシー会社は沢山あろうに・・ましてや 宮崎駅前のタクシーだったら 色々ある・・。

後で 分かったのは 叔母の夫は 宮崎では知らない人はいないくらい 政治の裏のドン だったとか・・。 と言われてもよく分からんけど・・ その夫さんが 選挙の力は 牛耳っていたのだそうな。

それでも よくわからんかったけど・・。 その夫さんが 私を 宮崎の観光名所を 全部タクシーで 案内してくれた。その夫さんは 叔母と同じく ニコニコしていて 言葉は少なかった。

私の母親は 般若の面の様な顔で ヒステリーの如く 叫びまくるのが 常。 子供の頃から 大人になってからも 私の母親は 私を罵り続けた。

なので その叔父 叔母の 言葉少なめの ニコニコ顔だけの生活が なんとも不思議なくらい 強烈な印象として 残っている。

私は母親に醜い顔 醜い性格 というのを洗脳されてそだったので ずっと この世に生きる意味さえない 早く死ななければと 思い続けて来たのが 高校生から 二十歳過ぎまでの私。

二十歳をすぎ 家を飛び出し・・やがて 海外生活にはいるのだが・・ 移住の前の頃に叔母が 我が家に来て 私を 遠くから ジッと見つめていたのを 記憶している。 

彼女は 寝巻きのまま で起きたばかり・・ 何もせず 着物の袖に両手を突っ込んで 壁にもたれかかったまま 動かない。頭だけ 私の方に向いている。

その時 私が その視線が気になって その叔母を見ると・・ その時も 穏やかに ニコッとして 「のりこちゃん あんたは きれいよ~! 自信をもちなさい!」 と 叔母にしては キッパリとした 言い方だった。

私は その言葉を 今も 一番の宝物として 心の中にしまってある。 その一言が 私のその後の人生にどれだけの力を与えた事だろう・・・。

私はニュージーランドに移住し・・宿業に忙しいなか 10年ぶりだったか 日本に里帰りをした。

一番気になったのが その叔母。 宮崎で 夫さんもなく 一人暮らしをしているとか・・。 あの頃 叔母は 考えてみれば 今の私の歳だったような・・。

両親は 私が 宮崎のその叔母に会いに行くと言ったら 強行に止めた。「あのおばさんは あんたには会いたくない!! って言ってるんだよ!!」 をしつこく言われた。どうしても 会いに行くなを言い続ける私の両親。

私は前日にコッソリと レンタカーをして 次の夜明け前に出発して 鹿児島から 宮崎まで 叔母の家に行く。

叔母は 家の戸には ガッチリと鍵を掛け 絶対に開かない様にしてある。 それでも 私は ガンガンと 家のあちこちのドアを叩き回った。

やがて 窓の内側にあるカーテンの隙間から 山姥の様な形相で 私を睨み 「あんた誰?!」 と 腹の腑の底から出すような声で言う。

私の名前を言うと 理解したのか しなかったのか・・ 表情のない顔で 戸を開けてくれた。 30度以上を越す 宮崎の真夏に 彼女は 電気コタツが付けてある。

私が消そうとすると 消すな! 肌着を乾かしてるんだ! と叫ぶ。 家中 物が散乱して・・・すえた臭いがただよい・・ 壮絶な状況なのだ。

その時 両親がなぜ 私に叔母の所へ行くことを 強行的に阻止したのが分かった。 彼らはすでに その状況を知っていたのだ。 知っていて それを放置していたのだ。多分 自分たちの責任ではない・・と言う結論付をしたのだろう。

それから 私は 車で 何回も 買い物に出る。肌着 洗濯用具 食料 とりあえず そこの掃除と洗濯には 沢山の物が必要だった。 叔母は 自分の持っているその特定の肌着しか着ないと言うので その肌着の売る店 メーカー サイズをしっかりというではないか! 私はその指示に従って 買い物に出る。

家中を掃除し・・家中に風を通し・・外にあった おびただしい数の鉢植え植物に水をやる。 長い間水無しでやっと 生きている植物達・・。 ホースでジャブジャブと 庭十に水を撒く私を見ながら 叔母がポツリと言う。

「あんたのお母さんは 切り花だけど 私は やっぱり 根が付いて生きてる植物が好き」と言った。 私の母親は 何十年も生け花の先生をしていたので その意味で 叔母は"切り花"と言ったのだろう。

私もその時 思った。種から植えて芽を出し 成長していく過程を追って行くと・・まるで 人間の様でもあり その節々で感動的は生命力を感じる。

だが・・田舎で育った私は 野に咲く花を 詰んで 手に持っている間に アッという間に萎れるのを見て 悲しくなった。

だから その叔母の言葉は 私の母親と叔母の生き方の真逆な所が 又 母親が 私と叔母を憎んだ理由だったのかもしれない。

叔母の家に行った時の話に もどそう・・。汗で臭くなった 自分と 叔母の体を洗うべく風呂を沸かす。 叔母を風呂に入れようとしたが ガン! として拒む・・が・・やっと シャンプーだけはさせてくれた。

そして 私は その後 沢山の料理を作った・・。

「あたしゃ 何も食べないよ!」 と言う叔母の言葉を完全に無視して 私は まるで 宴会でも始めるくらいに 料理を作って並べた。

そしたら 叔母は 「取っておきの 私の作った梅酒をさそうかね~」と言って どこからか 引っ張り出し 特別のガラスのグラスを出して来た。そして 叔母も私も 二人の宴会をしたのだ。

夕方になって 私は "大変な事をしてしまった事に気づいた" 私は毎日 これから この叔母と一緒に暮らす訳では無いのだ。しばらく一緒にいて これからの叔母の生き末の手配ができないのに・・・。

泣いて前が見えにくい状態で 運転して また 両親の元に戻ったのを記憶している。 叔母も 私が 玄関を出る時に コメツキバッタの如く私に頭を下げていたのが忘れられない。

両親が 烈火の如く私を怒ったのは 仕方が無い事だろう・・。 が・・ 長男の私の父親が 叔母の受け継ぐ財産も 強制的に放棄させたのだから・・近くにいる 財産を独り占めしたお前が妹の面倒みたって バチはあたらね~だろうに・・と言う気持ちは 私の中にあった。

後で聞いた話だが 叔母を 長男の父親が病院に入れ 最後まで 看とったと聞いた。 そして その費用は 叔母自身 余るほど持ち合わせていたとか・・。

今 私の兄 つまり長男は 妹である 私には 財産分与は 1銭もしないつもりだとか・・ 私の両親が 兄にそう言い残したとか・・。

なんか 時代は そうやって 継がれていくのだろう・・。


2025年7月3日木曜日

海外で出会う日本人は日本人に大して冷たい

 外国で 出会う日本人は 何故に あんなに同郷の日本人に冷たいのか?! これは 本当に謎なのだ。

もう 海外生活が相当長い人 そうでもない・・ 中途半端な長さの人は 冷たい。 

50年以上前 私は ロンドンにあった 移民の為の語学学習のクラスがあって そこの入学申し込みに行った。

その時 日本から ロンドンにたどり着くのに 一ヶ月以上 一人ぽっち・・ それから また 2ヶ月ぐらい一人ぽっち・・ もう 日本語が恋しくて 恋しくて・・ 

そんな時 その英語のクラス申し込みの列に 日本人らしき 女の子が私の二人前に居た。 私は嬉しくなって 「こんにちわ~」と言っても なぁ~んか 聞こえてない・・ 今度は 「こんにちわ~!!」 とデカイ声で叫ぶ・・。

え?! もしかして 日本人ではないのかな? と思って 思いっきりデカイ声出「こんにちわ! 日本人ですよね~!!」 と 言うと・・

ギッ!! と睨まれたと思ったら 「日本語で話しかけないで!!」 と叱られた・・。「英語を学びにきてるのに 日本語は話したくないの!!」と言われてしまった・・。

以来 私は 日本人らしき人を見ても 海外では 話しかけない事にした・・。

ニュージーランドに来た時も 最初息子を教育委員会で いかにして言語の違う子を スムーズに現地の学校に溶け込ませてあげるか? と言うのを検討してくれた。 

その時 教育員会の人が 「Noriko すばらしい! 日本人女性がここ クライストチャーチにいるの 紹介するわ! ぜひ ぜひ! この日本人女性に電話してみてね~! きっと とてもいいお友達になるわ~!」 と言ってくれた。

が・・ 私は その電話番号を書いてくれた 紙を握りしめ 電話しないでいた。 が 次の日も 次の日も その教育委員会の女性が 「Noriko 電話した?!」 と訊くので こりゃ~ 電話しない訳にはいかん・・ やっぱ 一回は電話しなくっちゃ~! と 気が重かったが 電話してみた。

電話して 自分の名前を言うと 「誰?」 と返って来た。 私・・「あの 教育委員会の人が あなたを紹介してくれて・・」 と言うと 「で?! なんの御用?!」 と 相当の高飛車な態度・・私は シドロモドロで 「いや・・別に用事がある訳でもなくて・・」と言うと・・ 「用事もないのに電話してこないで!!」と叱られた・・。

やっぱり 私の思った通り・・。以後 二度と 日本人を海外で 探したり 話しかけたりは しないようにした。

先日のニュージーランド・タンゴ・フェスティバルでも そんな事 すっかり忘れて "同じ日本人同士だし・・"と 思ったのが 大間違い!! 

ディスられておしまい・・。でも その男二人とも 現地の外人には 高評価! とても フレンドリーで 誠実だとか・・。

ま~ そんなもんだ・・。 なぜ あの50年も前にすでに知っていた事を忘れたのか? あれは 一生忘れてはいけない 教訓だったはずなのに・・。

後日 私の教訓を変える事も勃発する・・。

50年前 ロンドンで その英語のクラスで 別のアジア人女子がいるのを発見! 私は いや~ もう 絶対に話しかけないどこう! と 心を鬼にして 毎日 会うのに 見て見ぬ振りをした・・。 が! やっぱ 私は その女子が気になって仕方がなかったのだろう・・ どうしても 彼女を見てしまうのだ・・。

そしたら ある日 彼女が ニコッとするではないか! ん?! 違う・・ なんで? とおそる おそる 私もニコッと返す・・その後 その女子とは 夜昼構わずお喋りしまくり・・彼女の家に行って 食事を一緒にして 泊まって行ったり・・ 彼女には カナダ人の彼氏が居て 彼氏と 同棲していたのに・・彼氏の事なぞほっぽりだして私とベッタリ・・。

もう一人の日本人女子も紹介してくれて その彼女も ドイツ人と同棲してて・・ でも 我ら3人の日本人女子は 以後 ベッタリで まるで 一緒に生活していた様に くっつきっぱなし・・。

カナダ人彼氏のいる女子は 英語さっぱり出来ない・・・ もう一人のドイツ人彼氏のいる女子は 英語はもちろん1 ドイツ語 日本語と三ヶ国語ペラペラ・・。

すでに50年以上も前に 私は 学んだのだ・・海外で 日本語を話すと英語が出来なくなると言うのは 嘘!!

2025年7月2日水曜日

寒い朝


 みぞれっぽい雨だと 野鳥が ドンドン来る。レースのカーテンを閉めて置くと 大勢やって来る。
喧嘩も激しい。

レースのカーテンを開けると 私は 凄くよく見えるけど 強がってる奴が チョコ チョコやって来る。

そういう奴の 縄張り力は半端ない。

タンゴの技術は 生きる技術と同じ

 パートナーダンスは リーダーがいる。 リーダーに振り回される・・リーダーのリードが気になって仕方がない・・ リードが上手くなかったら 自分のダンスは 大惨事になる。

でも! リーダーのせいにしてはならないのだ。

私は でも・・でも・・リーダーを無視は出来ない・・ と 先生に言う。 で その答えを先生が教えてくれる。

まず 先生が 私にリードしてみろ・・と言う、 私は リードなんかしたことないし どんな風にしていいかわからん! というと いいから どんなんでもいいから リードのカッコウだけでもいいから 動いてみろ! と しつこい。

なので 私が 動いてみたら・・ ビックリ!! 先生の腰から下は 完全に石の様に固まっている。 まるで 上半身は 人間だが 腰から下は 石! こんな感覚は 初めて味わった。

リードを認めたくなかったら これをしろ! と言う。 

正に! タンゴの踊りは 腰から下が勝負! もちろん 体全体を使わないと 腰から下の動きは スムーズには行かないが・・ 相手の無茶苦茶なリードを抑える方法とは 腰から下に 上半身から得たリードを無視する方法なのだそうな・・。

もちろん 受けたいリードは 瞬時に上半身から下半身へと を伝達させる。 

そんな 小技が 瞬時にできるのか? と思うが それが 出来ないと タンゴは踊れない。 だって 自分の受け入れるリーダーと当たるかどうか? なんて 踊ってみないと 分からないからだ。 

特に知らない土地に行き 知らない人とだけで踊る時は もうその技術を会得しないと 話にならない。 私の様に タンゴは 旅のついでに 楽しむ 大きなイベントなので 常に 全く知らない人とばかりと踊っている。

いつも思うのだが タンゴの技術は 人との付き合いの技術と全く同じなのではないだろうか。

自分を信じる 自分を大切に

今日 お前は何をしていたのか? と タンゴの先生に聞かれ・・なんにもしてなかった・・と言おうとしたが・・ いや ずっと していたのが "終活"なのだ。終活なんて 最近自分も知った言葉だ。 そして それは final task 自分の死にあたって 最後にやっておかなければならない仕事。

自分の死後 周りの人達へ 自分のゴミ処理や 不要物の処理の煩わしさを残さないように・・。 と 思っていたが・・ いや それは 違う様な気がして来た。

自分の恥を消してから きれいにしてから死ぬと言う作業なのではないか? と 先生に言いつつ そう思った。

"自分の尊厳"の為に "終活"は ある・・つまり "自分"なのだ。

そこで 先生は 即 タンゴに結び付ける! まるで 鬼の首を取ったかの様に! 

つまり 先生は 常に 常に! "自分が どう動いて踊ったか"を意識して今踊ったか? と 訊く。 で・・答えは いつも "いや自分の事は意識して踊ってない" ただただ リーダーのリードに集中して それだけが気になって・・ と答える。

そこが 間違いなのだ。 "自分に全集中させる" つまり 自分の腰に重点を置き 常に 自分の動きに全集中を向け無ければならない。と先生は言う。 

でも でも リーダーのリードには 集中しなくていいの? と心で思う・・ すぐ様 先生は 私の心をむ抜いて・・ お前のダンスレベルは もう リーダーのリードは 無意識に受け取っている・・よって リードに意識を向けるのではなくて 自分の体に 意識を向けるのだ! と言う。

自分が 足をどうやっているか・・ 腰を どう向けて どのぐらい 動かしているか? 息遣いは? 重点を腰から下へ向け 絶対に 腰から上の方には持って行かない・・とか 注意すべき点は 無数にある。

そして "自分を信じろ" が 彼のいつもの言葉なのだ。 

ニュージーランド・タンゴ・フェスティバルで 踊った 二人の日本人男が 私に浴びせた誹謗中傷の言葉を 先生に言ったら 

"自分を信じろ! 自分に浴びせかける誹謗中傷なんて 下の下の奴がやる行為であって 自分が 相手の何倍もの力があり 何倍も上位にいる と思え。 そして それは事実なのだ。 絶対自分を信じる事を忘れるな!"

"人を上から目線で見る奴は すでに下の下にいるのだから" 

その言葉を聞いたら 思わず 涙が出て 止まらなかった。 自分でも なんで そこで そんなにも涙が出てきたのか 分からなかった。