父親の妹である叔母が 私にはいた。 その叔母を 私の母親は ものすごく嫌っていた。 なぜか・・・ どう考えても 私が 大人になってからでも 今 もう 74歳と言う 歳になっても なぜ あんなに 私の母親が その叔母を嫌っていたのかが 分からない・・。
私が子供の頃は 戦後で 男不足で 結婚できない女が沢山いた。 その叔母もその一人で 我が家に居た。 と言うのが 私の母親にとっては 気に食わなかったのか?
それでも 私にとっては その叔母が 我が家に居た記憶は全くない。 と言うのは 多分 我が家には ほんの数年 私が乳児の頃にしかいなかったのだろう・・。
母親から聞いた話で その叔母は 進駐軍のジープでさらわれて 近所中大騒ぎになったと・・で だいぶ経ってから ケロッとして ただいま~! と 帰ってきたとか。
みんなが 大騒動しているのにも関わらず 悪ぶれない態度で 近所中があっけにとられ・・ 「みんなが 心配しているのに なにその態度は!」と 言っても 「ヒッチハイクして帰ってきただけなのに・・」 と本人は言ったとか。
あの頃 "ヒッチハイク"と言う言葉を使ったと言うのが また 私にとっては 驚き。 ましてや それを 実行した そして それが アメリカ兵のジープ だから それだけで もう 私としては "アッパレ!" としか言うしか無い。
なのに それを 話したのは私の母親であって・・ 母親は 如何に叔母が非常識で 問題人間だったか! を私に言いたかったのだ。
が 私の反応は 彼女の期待を完全に覆して "凄い叔母!"と讃える様に言ったから 母親の憤慨は半端ではなかった。 それは 私が 二十歳の頃に聞いた話だ。
私の母親の叔母への憎しみは その辺から 私の方に矛先が向いた様な気がする。
私は 高校に殆ど 登校していない・・つまり不登校 だけど 親はそれは全く知らない。 親は 私が 全く登校していなかった事すら 気がつかないくらい 私には全く気が向いていなかった。
もちろん! 高校時代 友達と言う人もいないし・・一緒につるんだ人もいなかった。 よって 修学旅行の為に学校で積み立ててあったお金をそっくり 使って 私は 一人で 岩手から 宮崎に住む その叔母に会いに行くことにした。母親にそれを言ったら すんなり いいよと言ってくれた。
それは 許可したと言うより 面倒くさいから 心配とかも考えたくなかったから それとも 叔母の名前を出したからか・・・ 投げ出すような "いいよ" だったのを ハッキリ記憶している。
なんと 私は その時 岩手から 神戸までは 列車で それから フェリーに乗って 宮崎まで・・帰りは 宮崎から 寝台列車で 東京まで それから 岩手まで・・と 大旅行をしたのだ。
神戸からフェリーで宮崎までは 一生忘れられない程楽しかった記憶がある。 他の 男子高校生達 何人も囲まれて フェリーにいる間 ずっと 彼らとつるんでいた。 私は 女子一人で まるで 女王様的 存在だった。
高校はほとんど不登校で 友人一人もいなくて 寡黙な ・・多分 引きこもり的存在の子供だったのが 突然 真逆な環境になったのを覚えている。
その時 その男子達と撮った写真が残っていると言うことは その後 手紙のやり取りがあったのだろう・・。 まだ 写真は印画紙の時代だったし。
叔母の話にもどそう・・。 叔母は 言葉をあまり発しない人だった。 私を見つめて ニッコリはするが それだけで 心を通わす人だった。
宮崎駅で タクシーに乗って 家の名字を言いなさい・・と言われて 私は叔母の家に辿りついた。 その時 どのタクシーでもいい・・と言うのが 不思議でならなかった。
宮崎市だから 結構デカイ都市だから タクシー会社は沢山あろうに・・ましてや 宮崎駅前のタクシーだったら 色々ある・・。
後で 分かったのは 叔母の夫は 宮崎では知らない人はいないくらい 政治の裏のドン だったとか・・。 と言われてもよく分からんけど・・ その夫さんが 選挙の力は 牛耳っていたのだそうな。
それでも よくわからんかったけど・・。 その夫さんが 私を 宮崎の観光名所を 全部タクシーで 案内してくれた。その夫さんは 叔母と同じく ニコニコしていて 言葉は少なかった。
私の母親は 般若の面の様な顔で ヒステリーの如く 叫びまくるのが 常。 子供の頃から 大人になってからも 私の母親は 私を罵り続けた。
なので その叔父 叔母の 言葉少なめの ニコニコ顔だけの生活が なんとも不思議なくらい 強烈な印象として 残っている。
私は母親に醜い顔 醜い性格 というのを洗脳されてそだったので ずっと この世に生きる意味さえない 早く死ななければと 思い続けて来たのが 高校生から 二十歳過ぎまでの私。
二十歳をすぎ 家を飛び出し・・やがて 海外生活にはいるのだが・・ 移住の前の頃に叔母が 我が家に来て 私を 遠くから ジッと見つめていたのを 記憶している。
彼女は 寝巻きのまま で起きたばかり・・ 何もせず 着物の袖に両手を突っ込んで 壁にもたれかかったまま 動かない。頭だけ 私の方に向いている。
その時 私が その視線が気になって その叔母を見ると・・ その時も 穏やかに ニコッとして 「のりこちゃん あんたは きれいよ~! 自信をもちなさい!」 と 叔母にしては キッパリとした 言い方だった。
私は その言葉を 今も 一番の宝物として 心の中にしまってある。 その一言が 私のその後の人生にどれだけの力を与えた事だろう・・・。
私はニュージーランドに移住し・・宿業に忙しいなか 10年ぶりだったか 日本に里帰りをした。
一番気になったのが その叔母。 宮崎で 夫さんもなく 一人暮らしをしているとか・・。 あの頃 叔母は 考えてみれば 今の私の歳だったような・・。
両親は 私が 宮崎のその叔母に会いに行くと言ったら 強行に止めた。「あのおばさんは あんたには会いたくない!! って言ってるんだよ!!」 をしつこく言われた。どうしても 会いに行くなを言い続ける私の両親。
私は前日にコッソリと レンタカーをして 次の夜明け前に出発して 鹿児島から 宮崎まで 叔母の家に行く。
叔母は 家の戸には ガッチリと鍵を掛け 絶対に開かない様にしてある。 それでも 私は ガンガンと 家のあちこちのドアを叩き回った。
やがて 窓の内側にあるカーテンの隙間から 山姥の様な形相で 私を睨み 「あんた誰?!」 と 腹の腑の底から出すような声で言う。
私の名前を言うと 理解したのか しなかったのか・・ 表情のない顔で 戸を開けてくれた。 30度以上を越す 宮崎の真夏に 彼女は 電気コタツが付けてある。
私が消そうとすると 消すな! 肌着を乾かしてるんだ! と叫ぶ。 家中 物が散乱して・・・すえた臭いがただよい・・ 壮絶な状況なのだ。
その時 両親がなぜ 私に叔母の所へ行くことを 強行的に阻止したのが分かった。 彼らはすでに その状況を知っていたのだ。 知っていて それを放置していたのだ。多分 自分たちの責任ではない・・と言う結論付をしたのだろう。
それから 私は 車で 何回も 買い物に出る。肌着 洗濯用具 食料 とりあえず そこの掃除と洗濯には 沢山の物が必要だった。 叔母は 自分の持っているその特定の肌着しか着ないと言うので その肌着の売る店 メーカー サイズをしっかりというではないか! 私はその指示に従って 買い物に出る。
家中を掃除し・・家中に風を通し・・外にあった おびただしい数の鉢植え植物に水をやる。 長い間水無しでやっと 生きている植物達・・。 ホースでジャブジャブと 庭十に水を撒く私を見ながら 叔母がポツリと言う。
「あんたのお母さんは 切り花だけど 私は やっぱり 根が付いて生きてる植物が好き」と言った。 私の母親は 何十年も生け花の先生をしていたので その意味で 叔母は"切り花"と言ったのだろう。
私もその時 思った。種から植えて芽を出し 成長していく過程を追って行くと・・まるで 人間の様でもあり その節々で感動的は生命力を感じる。
だが・・田舎で育った私は 野に咲く花を 詰んで 手に持っている間に アッという間に萎れるのを見て 悲しくなった。
だから その叔母の言葉は 私の母親と叔母の生き方の真逆な所が 又 母親が 私と叔母を憎んだ理由だったのかもしれない。
叔母の家に行った時の話に もどそう・・。汗で臭くなった 自分と 叔母の体を洗うべく風呂を沸かす。 叔母を風呂に入れようとしたが ガン! として拒む・・が・・やっと シャンプーだけはさせてくれた。
そして 私は その後 沢山の料理を作った・・。
「あたしゃ 何も食べないよ!」 と言う叔母の言葉を完全に無視して 私は まるで 宴会でも始めるくらいに 料理を作って並べた。
そしたら 叔母は 「取っておきの 私の作った梅酒をさそうかね~」と言って どこからか 引っ張り出し 特別のガラスのグラスを出して来た。そして 叔母も私も 二人の宴会をしたのだ。
夕方になって 私は "大変な事をしてしまった事に気づいた" 私は毎日 これから この叔母と一緒に暮らす訳では無いのだ。しばらく一緒にいて これからの叔母の生き末の手配ができないのに・・・。
泣いて前が見えにくい状態で 運転して また 両親の元に戻ったのを記憶している。 叔母も 私が 玄関を出る時に コメツキバッタの如く私に頭を下げていたのが忘れられない。
両親が 烈火の如く私を怒ったのは 仕方が無い事だろう・・。 が・・ 長男の私の父親が 叔母の受け継ぐ財産も 強制的に放棄させたのだから・・近くにいる 財産を独り占めしたお前が妹の面倒みたって バチはあたらね~だろうに・・と言う気持ちは 私の中にあった。
後で聞いた話だが 叔母を 長男の父親が病院に入れ 最後まで 看とったと聞いた。 そして その費用は 叔母自身 余るほど持ち合わせていたとか・・。
今 私の兄 つまり長男は 妹である 私には 財産分与は 1銭もしないつもりだとか・・ 私の両親が 兄にそう言い残したとか・・。
なんか 時代は そうやって 継がれていくのだろう・・。
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